というわけで、この前言ってた千夜一夜ってのをやってみようと思います。
多分といいますか高確率で2話目がないか10話いかないかのどちらかだとおもいますが。
物は試しにというわけです。
書〜千夜一夜 1話目馮保「清明上河図跋」 そもそも、馮保が書人であるのか否かという疑問がでるのは当然である。だが、筆墨硯紙が世の人々と共にあった時代において書人か否かを問うのはナンセンスである。
馮保は深州の人、号は双林。嘉靖・隆慶そして万暦帝に仕えた宦官。万暦年間にあっては、司礼監太監、東廠提督を兼ねて権勢をふるった。万暦帝即位時から張居正と共にその治世の前期の政務にあたったが、居正の死後しばらくして失脚して南京に流され死亡した。
先に書人であるかないかを問うのはナンセンスだと書いたが、では文人であるか?と聞かれたならばYESと答えるよりほかない。
司礼秉筆太監であることから内書堂出身と推測できるため、恐らくはある程度の文学の知識はあったと思われ、
『明史』に
保善琴能書。帝屢賜牙章(象牙の印)曰「光明正大」,曰「爾惟鹽梅」,曰「汝作舟楫」,曰「魚水相逢」,曰「風雲際會」,所以待之甚隆。とあるように、琴を善くしまた書を能くした。
さらに『明朝宦官』では、文化的教養が高く、司礼監中に多くの書を刻し(原文:他在司礼監刻了很多書)、それらは明末まで宮中に流伝していたとされる。また、劉若愚の『酌中志』においては儒者の風を持つと称されるなど、文人の一端(おいらは明代のこうした教養ある宦官を文宦と呼んでる)に加えられることに異論はないと思われる。
では肝心の書を見てみたいと思う。
全文 (1) (2)
余侍
御之暇嘗閲図籍見宋時張択端清明上
河図観其人物界劃之精樹木舟車之
玅市橋村郭逈出神品儼真景之在目
也不覚心思爽然雖隋珠和璧不足
云貴誠希世之珎歟宜珎蔵之時
萬暦六年歳在戊寅仲秋之吉
欽差総督東廠官校辧事兼掌御用監事*
司禮監太監鎮陽雙林馮保跋
(3)(4)
(1)侍御餘清
(2)馮永享収蔵書画記
(3)馮保印
(4)永享
ほぼ書き下し 余、侍御の暇に図籍を閲し、宋時の張択端≪清明上河図≫に見ゆ。
其の人物界劃の精、樹木舟車の玅(ミョウ)、市橋村郭を観るに、逈かに神品に出で、厳に真景の在目なり。覚えずして心思爽然たれり。隋珠和壁と雖も、貴しと云うに足らず。誠に希世の珎ならんや。宜しく珎はこれを蔵すべし。時は万暦6年歳は戊寅仲秋の吉に在り。
欽差総督東廠官校弁事 兼 掌御用監事 司礼監太監 鎮陽 双林馮保跋す。
ほぼ訳 私が陛下に仕えていた時の合間に、図籍(倉庫かなんかの目録かな?)を見ましたところ、北宋の張択端を目にかけました。其の人物の線の精緻なること、樹木や舟車のすばらしきこと、市や橋、家々の様子を観るに、正に神品であり、すばらしく本物の風景のいきいきとした様子そのままです。
自然と心は呆然となりました。隋侯の珠、和氏の壁と雖も貴し云うには及びますまい。なんと、至極の宝物であるか。まことの宝は大事にしまっておくのがよいでしょう。
万暦6年 戊寅の仲秋吉日に欽差総督東廠官校弁事と掌御用監事を兼ねます司礼監太監 鎮陽(にて?) 双林と号します馮保が跋を書きました。
以前の日記で取り上げた通りなのだが、恐らくは上記のような意となるだろう。
さて、肝心の書法に目を移すと見事な「館閣体」であるといえる。
館閣体とは当時の宮中で使われた標準的な書体であり、明代においては永楽帝が「我が朝の王羲之」と称えた沈度の書風がこれにあたる。内書堂においてこの館閣体の習得が必須であるために恐らくは馮保もこの体を善くしたと推測できる。
参考:
沈度 沈藻(沈度の子) 沈度父子と較べると細身ではあるがすっきりとした美しい字であると言える。ただ、若干ながら筆勢に欠けている様に思えなくもないが。
:
:
:
細かく、字体の検討等をしていきたいのはやまやまではあるが寝る時間が迫っているため、感想は諸兄らに任せたいと思う。
残念ながら、今までに宦官が残した書跡でおいらが目にしたのはこの跋のみである。『中国書法史を学ぶ人のために』で挙げられている中国各地の博物館の蔵書を載せたとされる「中国書蹟大観」にも残念ながら入っておらず(純粋に書家だけだった)、ほかのもう一つ(名前失念)をみて見るよりほかないだろう。
とかく宦官というものは当時にあっては人にあって人にあらず、今日においても歴史の暗部がごとく扱われがちではあるが、明代にあっては詩書画をよくした文人宦官が登場したことは着目すべき点であり、その代表作としてこの跋は貴重と言えよう。
おしまい
肝心の書が短すぎてわらた