あかまつさんの駄ぶろぐ

徒然なることを ひたすらに書き殴って炎上させる実験的マゾブログ     !このブログの内容は多分フィクションです。登場する人物、団体、地名など恐らく現実とは関係ありません!

このカテゴリーの最新記事7件

久々の宦官

 いやはや、発掘すればどんどん見つかるもんである。

おおっと、今日はこれから書き書きしようと思うから右筆記はお休みだぜ。

何が発掘できたかって、宦官だよ、宦官。
おいらは今まで明代に内書堂ができて始めて宦官のルネッサンスが到来したかと思っていたが事態はぜんぜん違った。

実はそれ以前に春が到来していたのだ。
怪我の功名とでもいうべきか、授業で発表するために徽宗についてしらべていてわかったのだが、この時代、亡国の君主徽宗の下、花開いたある種退廃の文化とともに宦官にも文化の春が訪れていたのだ。

詳しくはギッチギッチになったかばんから資料をとりだすのがだるいので割愛するが、かなりの量の宦官がいたのにはおどろいた。

いやはや、怪我の功名というべきか。

いや、最近思うようになったのだが、ひとつの種も食せば1つだが、植えれば無数の糧となるのだ。
何事も自らにプラスとなるのだ。

これは、面白くなってきたな。
暇だったら詳細後日書きます。



業務連絡
 大きな作品書くために下敷きを探していた赤松。
だが、書道用具やでは9000円前後というすさまじい値がついていたのだ。

こんなもん買ってられるか!
そうおもった赤松に希望の光が射す。
そうヤフーオークションである。

そこでは、なんと一般的な書道用ではない毛氈を150cm*1m1350円で売っていたのだ。

これは吉兆、とばかりに2m50cmほど発注した馬鹿松。

それが今日とどいていた。
あまり期待していなかった赤松だが、なんと、、、、

お前これいい代物ってレベルじゃねーぞ!!

普通に厚さ2mmあるし、普通に使えるじゃないですか奥さん。


ただ、幅150はでかすぎた。90で十分だわ。150だから、折っても75cm。なんと十分過ぎわらた。



まぁ、問題は縦が長すぎて我が家の部屋にこの滑走路は建設できなかった訳です。

↓解決策

CIMG1942.jpg

どっとはらい。

追記

ニロクのロクは紙のおかげか濃い墨で書いてもスイスイかけた。だけど、横幅ありすぎ。自重しろ。

ニハチは書いてて7文字目で飽きてやめた。この紙墨吸い過ぎ。自重しろ。


赤松の法則に追加。
半切は一日4枚、それ以上は1枚が限度。これ、豆知識やで。
  1. 2008/05/04(日) 00:54:06|
  2. 宦官
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開府の詩

 さて、度々このHPでもとりあげております開府についてですが、このまえ旧唐書をみてて気付いたんですが、開府は詩を詠んでいたんですね。恥ずかしながら今まで気付きませんでした。


これでも聞きながらどうぞ。


旧唐書では

力士至巫州,地多薺而不食,因感傷而詠之曰

力士巫州に至り、地は薺(ナズナ)を多くすれども食せず、因りて感傷して之を詠じて曰く・・・・

兩京作芹賣 五溪無人采 夷夏雖不同 氣味終不改


となります。書き下しとしては

両京芹を作りて売り 五渓は人采ること無し。
夷夏同じからずと雖も 気味は終しく改まらず。


あたりでしょうか。
多分意味としては

洛陽・長安の都では芹をわざわざ作って売っていたが、ここ巫州(現:湖南省と貴州省)では誰も採っていない。(扱いは?)都と辺境では違うだろうが、味はいつまでも変わらない。同様に私の忠誠は場所が違えど変わることはないのだ。

でしょうかね、自信ないですが。五溪は巫州にあった五つの渓谷かな。



開府の詩は『全唐詩』に2つ収められていて、先に挙げた詩ともうひとつ、こちらは句ですが、

煙熏眼落膜,瘴染面朱虞

というのが巻732にはいっています。先に挙げた詩も《感巫州薺菜》として入っていますが旧唐書と異同があるみたいで、

兩京作"觔"賣 五谿無人采 夷夏雖有"殊" 氣味"都"不改

となっています。この他に「芹」が「斤」になっているものなどがありました。どっちが正しいかは分かりませんが、『全唐詩』は清代、康熙帝の時代に編纂されたものですから、唐から950年くらいたってまして若干あやしいかもしれません。

対する唐書はどうかというと、そもそも新旧唐書のうち新唐書には載ってないんですよね。
旧唐書のほうも945年に作られていて時代は近いですが五代の混乱期に作られたためちょっと編集におかしな点がみうけられるが、当時残っていただろう資料で作られているため内容はより正確に唐代を写しているものと思われます。


宦官は総じて無学と思っていた(といっても開府は上奏文に目を通したり決裁してたりしてましたので、字が読めないことはなかったでしょうが)ので、明代の文宦以外に詩を詠んでる宦官がいるとは驚きでした。

また、それが尊崇する開府とあってはおいらの感動もひとしおです。
(全唐詩に一首しか入ってないってことは日常的に詠んでたわけではなさそうだけど)


おいらは、書が線だのかすれだのにじみだの章法だのなどとそれ単品で芸術です説には否定的で、書はこういった心振るわせる言葉とともにあってこそ活きるものだとおもっています。

詩も書もお互いが補い合いながらきたから東アジアに燦然たる文化として残った。おいらはそう信じてる。


しかし、旧唐書の開府の最期の場面をみるといつも涙が出そうになります。



どっとはらい。
  1. 2008/03/04(火) 02:27:05|
  2. 宦官
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ひさびさにわらた。

 数日かけて、旧唐書列伝134宦官の序文を書き下しした。

 それらがあってるかどうかは別問題だけど、めちゃめちゃ時間かかったわぁ。正直、文法的にみて上下点とか見分けられてないよこれ。
 あと、典故を使うの止めてほしすぐる、、、、、解読の労力が半端ない。1,2箇所あっただけなんだけど、東部戦線のKV1よろしくそこで足止めされるから困った、困った。

まぁ、正しいかどうかは別として近日中にUPしたいと思いますので是非諸賢の皆様のお力を貸していただきたく存じます。
一応、この後につづく列伝の方は高開府の項だけ書き下して終わりにします。他はリンクから「宦官列伝」に飛んで各自見てください。

で、なにが「ひさびらにわらた。」なのかというと、原文の中に、こういう一節があった。

袁本初之入北宮,無須殆盡

袁本初の北宮に入るに、無須殆ど尽く

とかって書き下しになるかなと思ったんですが、最初「無須殆盡」がなんなのか分からなかった。正確には「無須」が分からなかった。

再読文字の「須らく」と読んで、「須らく殆ど尽きるべくなし」ってなんのこっちゃ???とか思ってました。
漢和辞書引いても、「ひげ、あごひげ」、「すべからく〜べし」としかなくて、なにこのあごひげって?馬鹿にしてんのか?髭はかんけーねーだろ髭は!他の読み方はねーのか!とシカトしてたんですが、小一時間くらいしてからピーン!と来たんですよ(っていうか三国志知ってる人だったら見た瞬間すぐか。

袁本初ってのは袁紹のこと。袁紹って言えば、後宮に乗り込んで宦官皆殺しにしたやつ。
さて、ここで問題。袁紹はどうやって宦官をみわけたのでしょーか!



髭がないやつは皆殺しだろ。。。常識的に考えて。。。。


ああああああああああああああああああ、何でこんなのがわかんなかったんだー。

宦官、袁紹、殆盡で、「無須」ってきたら、「髭なし」しか取りようがないだろ、、、、自分の馬鹿さに感動してその後ずっと笑ってました。

もう一箇所同じ様なのでつまったのに

何、竇之徒轉蹙,讓、珪之勢尤狂

の部分。何と竇は、何は何進、竇は竇武かな(清流派なんだけど)、一応両者とも宦官と敵対+外戚の点で共通してるから多分あってる、いや多分だけど。

だが問題は、そのあとの「譲」「珪」。これがわからなかった。
譲だの珪から始まる名前のやつなんていたっけかなぁ、どっかの異民族か?、、、と思ってたら、

十常侍の張「譲」、段「珪」の二人を忘れてたわ、、、、、失態である。。。。(苗字じゃなくて名前で表記してるのはなんかいみあんのかな?)

これで外戚、宦官が揃ったわけでして、両者によって滅んだ後漢末の状況とも合致するので多分この解釈であってるはず、いやほんとに恐らく多分だけど。


 というわけで、漢文は怖い。おいらの場合なんですが、漢文を読むときに怖いのが先入観。さっきの無須にしろ、一度すべからく〜べしって思っちゃったらなかなかそこから離れられない。これが一番の大敵です。そういうことが無い様に戒めてるつもりではいるんですがね。





あぁ、一番の大敵はそもそも漢文が読めないことだわ。


どっとはらい




しかし、イントラネット社会は偉大だわ。知識がなくてもぐぐればでてくるんだから。
  1. 2008/01/02(水) 23:15:53|
  2. 宦官
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便利な言葉

 いやはや、世の中には全てを解決する魔法の言葉のようなものが多々ありまして。

まぁ最近ですと

美しい国ではよくあること

ですかね、個人的に。


さて、おいらもまがりなりにも書法の世界に身をおいてるもんですから、先生や師匠といった上の人から教えを請うことがあるわけです。

 で、その教えに沿ったものを作ると大体綺麗に行くわけです。
ところが、おいらみたいな「書は自分の精神の表れ」だから先生の指導なんてうけて師風に染まってられっかよ!!っていう困ったはねっかえりは往々にしてだめな作品が多い。うん、ほんとにだめなのがおおい。

だけど、それを無効にする魔法の言葉がある。

まぁやっぱり、そういった名言を残してくれるのはやはり赤松さんの慕う宦官なんですけどね。

このブログでも度々登場していただいている魚開府、こと魚軍容、こと魚朝恩様です。


 前から、云ってるんですが宦官ってのは基本的に無学。
文宦(文人宦官)がでたのは明代だけで、あとは基本的には無学の徒と思ってもらって差し支えない。

と こ ろ が ! 
この魚開府は、国子監事、つまり宮中に設けられた国立大学の学長まで勤められた大変学のある立派なお方なんですよ。


旧唐書にも「朝恩性本凡劣、恃勳自伐、靡所忌憚」、新唐書にも「朝恩資小人、恃功岸忽無所憚」などと褒め、、、ほめら、、、れてない、、、言葉がいっぱいの傲慢宦官の筆頭の人です。。。。

だけど、大学の学長になったのは本当で、五経を学んだり、文章を作ったりで、とうとう易やら卦について薀蓄たれたりと、大活躍!!

旧唐書にも「作為文章、粗能把筆釋義」とかかれ、、書かれ、、、、って筆をもつのもやっとだったみたいです、、、、


本題はこっからで、筆をもつのがやっとでちょろっと経をかじったり、文章をちょろっと作れる程度の魚開府が、さて何といったのか?


「自謂有文武才幹」
「謂才兼文武」


これ。

この魔法の言葉でどんなに粗悪品をつくっても一発解決。

「昔、へたれの癖に才は文武を兼ねるとかいってたやつがいたのに較べればおれのつくった作品は神クラスすぎて困る」と心の支えにするのもよし。

おいらみたいに、何言われようと平然と「我が才は詩(短歌)墨(書法)を兼ねる」ってガチでいっちゃってもよし。

なんという素晴らしい傲慢的精神に満ち溢れた美しい言葉なんでしょう。是非みなさんも、偉い先生になんか品評されたら言ってあげてください。

我が才は・・・・って。



あ、ちなみに魚開府はそのあと傲慢さがたたって、縊り殺されてるんでこれもあんまり使ってると、友人どころか知人もいなくなるんじゃないかと危惧します。

でもそんなのかんけぇねぇ!!





どっとはらい
  1. 2007/11/04(日) 23:27:47|
  2. 宦官
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神策軍

 というわけで、宦官と書シリーズなんですが、以前は魚朝恩と争座位稿だったわけですが、今回は「天子は暇にするべからず」の仇士良さんです。

 で、相対する書家はだれかというと「心正しければ、書もまた正し」 の柳公権。

おや、よく見ると顔筋柳骨の顔真卿、柳公権両氏とも宦官と接点ありましたね。


で、まぁ柳公権のどこが宦官と関わっているかというと、宦官仇士良が陛下(武宗だったかな、文宗かも)が左神策軍の将兵を観閲したことを記念する碑を立ててくださいって皇帝にお願いして、柳公権が書くことになった碑

神策軍碑

正式には

左神策軍紀聖徳碑

 左神策軍っていうのは、8つの禁軍(4禁軍が左右に分かれてる)の一つ。神策軍は禁軍中最大の兵力を誇った精鋭なんですが、それを統括する神策軍護軍中尉は宦官がつく職だったんですねー。禁軍を掌握してるということで宦官が唐代はでかい顔してたわけです。

で、その左神策軍を皇帝が見に来た時の記念碑をたてさせたと、こういうわけです。禁中にたてたんで拓をとるひとがあんまりおらず拓は希少みたいです。


柳公権っていうのは、心正しければ筆正しとかいっちゃうくらいの諫言を厭わぬ中々に実直な人だったみたいです。工部尚書をへてたしか太子少師、死後に太子太師を贈られる高級官僚クラスの人物。

書においては、後世きしょい文字のはじまりとかいわれるけど当時においては貴族皇族において彼に墓誌を書いてもらわないと親不孝といわれるくらいの人気者で、顔真卿の肉厚的な字に対してカッチリとした字だったので、顔筋柳骨と称せられた。



 まぁいくら宦官が忌むべき存在であろうと皇帝からの勅だったら書かざるを得ないよね。一応神策軍自体は禁軍なわけで、やましいところはないわけだから。

イーッヒッヒッヒ


sinsakugun.jpg


あれ、今月ブログはじめて初めて月の記事が20回超えたんじゃないの?

^^v
  1. 2007/10/31(水) 00:00:23|
  2. 宦官
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高力士

 今日は更新する予定じゃなかったんですが、まぁ人がまじめな話してるときに笑うのはよくないよね。いやそれは個人的なことで全然関係ないんだけど、ネットを漁ってたら面白いものがあったので紹介。


 題名でわかるとおもうんですが、玄宗の側近中の側近、宦官高力士閣下についてです。

 かんたんな略歴を書くと、

元の姓は馮で、高延福の養子になって高姓に変わる。武則天のあと玄宗に仕えて、「力士がいるから朕は眠ることが出来る」と玄宗に言わしめるほどに信頼されて権勢を振るった御仁。官品は内侍省の最高官内侍監(正三品)、文武散官最高位の驃騎大将軍、開府儀同三司に至るが、粛宗が帝位について玄宗が太上皇帝になると、粛宗下の宦官李輔国に追い落とされて巫州に流され、後に特赦されるが玄宗崩御の知らせを聞いて卒した(旧唐書に曰く、力士北望号慟,嘔血而卒)。この後玄宗の陵墓に陪葬された。

というまさに権力の中枢にいた御仁なんですが、何が言いたいかというと、その墓に至る神道碑の存在なんです。1960年代という結構昔に発見されたやつなんで、ご存知の方もいるかもしれませんがネットに画像がでてたんでチラッとみせます。

10431178459063_3.jpg

「大唐故開府儀同三司贈揚州大都督高公神道碑」

ああ、神道碑ってのは王や高官の墓に至る道の入り口(だったかな)に建てる碑のこと。高公で「公」がついてるのは斉国公に封じられてるから。

ちなみに上画像はここね、本文の写真もあるよ。


篆額は唐というか中世における篆書の大家 李陽冰
本文は 張少梯
字数は1650字

説明文だと二人とも当時の大家らしいです(李陽冰は殊に有名です)。
本文が行書体で書かれている点が面白い点で、こういった碑は永劫残すということで基本は正字、当時で言えば楷書で書かれるのが普通です。が、太宗の温泉銘、晋祠銘によって行書で碑がつくられるとこれも認知されるようになり行書で碑が建てられるようになったものと思われます。

見た感じ、結構重厚感あふれる行書っすね。

 うちの大学の教授の一人が持ってるみたいなので今度見せてもらおうかな、あんまり親しくないけど。


 高力士は、確かに李林甫、安禄山、楊一族といった奸臣を政治の場にだし、大唐に破局をもたらした。確かにこの点において高力士が非難を受けるのは致し方ない、だが、それでも尚おおいらはこの高開府に尊崇の念を抱かざるを得ない。

高開府は、この後に出てくる李甫国程元振仇士良魚朝恩といった宦官と違う点がある。それは誠忠とも言うべき玄宗の忠臣だった点で、権勢大になるといえども玄宗の為、玄宗の望むがまま、その矩を外れることなく最期の最期までその忠義絶えることなく侍ったことはまさに門田健吾氏のいうように列伝の忠義の項に入れられてもおかしくない。

惜しむらくは玄宗の望みと、国家繁栄が相容れなかったがために、奸臣の様に扱われているが、もし玄宗が生涯開元の治が如き政治を続けていたのなら、開府もまたそれに従ったであろう。

開府の人生まこと涙が出る思いです。


玄宗の墓に陪葬され開府は死後に至っても常しえに玄宗帝に侍ることができた開府にとってこの栄誉と安寧は何に変えられるだろうか?


人の世の 何処にかある 人の道 当に貴ぶ 高王の忠


どっとはらい
  1. 2007/10/10(水) 23:34:29|
  2. 宦官
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三大宦官

 なんか宦官のことしか書いてないけど、まぁいいか。たまにはまじめな月があってもいいだろ。

三大宦官っていっても仇士良、劉瑾、魏忠賢とかいった悪の三大宦官!ドカーンといった類ではなくてですね、俗に言う宦官の英傑3人についてです。

勿論、3人といっても千差万別だとおもいますが、誰もが知ってて名前が挙がるっていえば


司馬遷
蔡倫
鄭和


の3人じゃないかなとおもいます。

司馬遷は不滅の歴史書「史記」。
蔡倫は堂々世界に影響を与えたランク7位、紙の改良者。
鄭和は大明の威光を世界に広げた航海王。

と、歴史にのこる不滅の偉業をのこした宦官である点から上の三人が三大宦官と称されても詮無き事、、、、、といいたいところなんですが、どうしても個人的に司馬遷が宦官ってのは違和感があるんですが、どうでしょう。(まぁ、宦官の定義にもよるとはおもいますが。陰陽根がなくなったら宦官とかならありだと思いますけど。おいらとしては、本当にひどく漠然とした定義なんですが、宦官には宦官のなんていか独自の生き方というか、言葉にしづらい特徴みたいなものがあるんですよね。)



李陵を弁護したかどで武帝から死刑を命じられたが、史記のために宮刑に甘んじ、偉著をなした。ってのが大まかな司馬遷のエピソードでして、ウィキによると宮刑をうけたのが48才。その2年後に中書令(漢代だと内廷の秘書長らしい)に任じられるなど、宦官の職種にもついているなど、宦官であったことは間違いない。

ただ、それでも敢えておいらは宦官とよびたくない。

第一に、家柄がそもそも歴史家の家系で、教養高かった、つまり元々士大夫であったろうという点。

第二に、歳とりすぎ。人生五十年は敦盛だけど、ウィキだと60歳で死んでることになるんですが、48才で宦官、60才で死亡と、人生の末期に宦官になったにすぎない。それで、偉大な宦官というのは、例えるなら他のチームで功績を積んできた(元々歴史家)投手がペナントレース終盤で他チームにうつって(宦官になって)、優勝(史記完成)、司馬遷おまえの力が俺たちのチーム(宦官ズ)を優勝に導いた!、宦官ズのエースだぜ!とかってことでして、いやいや、違うだろと。もともと能力あった人間が最後に横滑りして宦官になっただけじゃん。

第三に、宦官になったのを屈辱と思ってる点。1と共通するけど、やっぱり士大夫ですよね、このへん。一時は自殺を考えたらしいですけど、五侯や十常侍が宦官になった時に自殺を考えたとかって話はきいたことがない。

(第四に、クリーンすぎる。宦官はもっとこうドロドロしているべきだ!さっき上で書いたけど、宦官臭がまったくしない。単に宮刑くらっただけじゃねーかというわけで個人的に宦官にいれてほしくない。。)

 上の3つの理由から司馬遷を偉大な宦官と称すのには反対です。司馬遷の名誉のためにも、「不幸にして宮刑を被った史家」あたりが妥当。決して宦官じゃない、と言いたい。


ちなみに、蔡倫は給事宮掖→小黄門で最後に宦官の最高職である中常侍という宦官ロードを歩んでます。最後は後宮のスキャンダルで自決しましたけど。(自決の際、士大夫として扱われてるけど)

鄭和は三宝太監ってところから言わずもがな、雲南人で12.3才で宦官になってます。


ひょっとしたら、他にも高齢で宦官になってる連中もいるかもわからないけど、寡聞にして聞いたことが無い。大抵幼少期か青年期からじゃなかったかなぁ、特に晩期はきいたことないなぁ。


まぁ、本当に一般の人っていうかおいら以外にとってどうでもいいことすぎてお困りだとおもうのでこの辺でやめます。

、、、読み返すと、司馬遷が宦官云々じゃなくて、史記が宦官の功績みたいに扱われてることに対する反論みたいになってんな。史記の執筆を宦官の行った業績に含めるなと言ったところ、、、、かな?


つまり


史記はぁー、歴史家司馬遷が書いたんであって、宦官司馬遷がかいたんじゃないのぉー!



何だこの結論。



どっとはらい


[三大宦官]の続きを読む
  1. 2007/09/29(土) 22:37:02|
  2. 宦官
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